連載 No.64 2017年10月01日掲載

 

紙に残す理由


10代のころ好きだった音楽や、初めて買った写真集…

感受性の豊かな時期に触れたそれらの輝きは、一生うせることがないのかもしれない。

私自身の作風も、そのころの流れをくむものであるし、

音楽の趣味などはジャンルこそ広くなったが、

高校時代毎日のように聞いていたイギリスのロックには今でも特別な思い入れがある。



時代と共に感覚を塗り替えていく人から比べれば、進歩のない人間のようで恥ずかしいのだが、

いつも持ち歩く小さな音楽プレーヤーにはクラシックに混じってそんな古いアルバムが入っている。

旅の途中に長い時間をすごすフェリーの雑魚寝の人ごみも、

そんな音楽を聴いていると、昔の自分と過ごしているような不思議な感覚で満たされる。



静かな部屋で慎重にレコードに針を落としていたころから比べると、自分と音楽との接し方はずいぶん変化した。

コンパクトなデジタルプレーヤーに無数のアルバムを入れて持ち歩き、どこでも聴けるようになった。

聴き方は変わっても、当時の印象と大きな隔たりはないと私は感じている。



写真の場合はどうだろう。

小さなスマートフォンだけで、撮ることも、見ることも、誰かと共有することさえできるようになった。

「写真を焼き増しする」と若い人に話したところ、通じなかったときがある。

「写真のプリント離れ」とでも言うのだろうか。

たくさん撮るがプリントはほとんどしないという人たちも多い。

彼らからすると汚れて破損したり、

すぐに人に見せられない紙の写真のほうが不便で扱いにくいものなのかもしれない。

そういう私も、作品以外で写真をプリントする機会は近年ほとんどなくなった。



単に記録や情報の伝達というだけなら、モニターで見られるデータがあれば事が足りる。

しかし婚礼写真や卒業アルバムのように

記憶や思い出を紙に焼き付けて所有したいと思う感覚がまったくなくなってしまったわけではないだろう。

つまり、本当に写真として残したいものだけをプリントするようになったわけだ。



芸術としての写真も紙だけとは限らない。

写真集も電子書籍に置き換えられるものがあるし、壁に飾るものだけが芸術ではない。

それでも暗室の中で印画紙と格闘して作品を作るのは、この紙でしかできない表現があるからだ。

それを誰かに所有してもらいたいという気持ちに外ならない。



この作品は1984年の撮影。

それまでは海の岩や砂などの水辺の撮影が多かったが、

この頃から山に登って枯れた植物などを題材にした作品を作れるようになった。

被写体が変わると、使用するフィルムや印画紙、処理する薬品や技法もいちから勉強しなくてはならなかった。

同じ事を続けるためには、新しい技術が必要なのかもしれない。